ブログはいつ書いたとかあまり関係ないっていうから、一年前以上に勢いで書いたものを引っ張ってきてみた、青いな…
「誰のために毎日働いて稼いでると思ってるの」
世の親たちが子どもに言ってしまいがちなセリフじゃなかろうか。
私は誰かの親ではないから子を持つ親側の気持ちは正直わからない。
けれど、子ども側、こっち側しか知らないときにしか感じられないことがあると思うから、ここに残しておこうと思う。
この言葉、現に私も最近母から言われた。
「こんなにも娘のために頑張って稼ごうとしているのに」
たしかに学生である私は間違いなく母の稼ぎで生活している。そこに異論はないし、感謝もしている。
だが、これに対して思考回路が思春期のままな20歳である私が一番に思う本音を言ってしまおう。
「頼んでない」
「てか思ってても言うなそんなこと」
そして極論なのを自覚しつつも、ここに辿り着いてしまう。
“産んでなんて頼んでない”
私は今の自分が好きだし、自分が歩んできた人生もその中で出会ってきた人も大好きだから、死にたいとか、生まれなければよかった、などと言いたいわけではない。
ただ、産んでと頼んだわけはないのだ。
親が子どもが欲しいと思った、
もしくは妊娠したから産むと決めた。
それって完全に親側のエゴじゃないのか。
自分がそうしたくて決めたことじゃないのか。
子どもを産む、育てる、がどんなに大変でお金がかかることなのか、自分のやりたいことやキャリアを犠牲にしなきゃいけないかもしれない、それらを想像して覚悟して決めたことじゃないのか。
母はこの言葉に反論した私に
「本当はやりたいことがたくさんあるのに、やれてなくて、つい、ね。」
と言った。
それが最初の言葉の源だと私も思う。
でもこれもまた、変な話なのだ。
母は私の夢を応援するために頑張って稼いでくれている。
だからきっと初めは”娘のために頑張りたい”という前向きな感情だったはずなのだ。
それが気づかないうちに”娘のせいで自分のやりたいことがやれない”という自己犠牲感にすり替わる。
これは私の母が悪いのではなく、同じような状況に陥ったら誰でもなり得ると思う。
こうならないとしたらそれは、
自分のやりたいことを通じてその人のために頑張っている人か、
もしくはその人のために頑張ることが100%で自分のやりたいことである人か
くらいなのではないか。
となると、そうでない人が”誰かのために頑張る”というのは、いつかこの人のせいで自分のやりたいことができないと思ってしまうかもしれないリスクを伴う。
つまり、そう思わない、少なくとも誰かのために頑張るその期間はそう思わない、思うことはあっても無視できる、
それくらいの強さを持っていないと到底無理なことなのだと思う。
近くで見ているからよくわかるのだが、母の生活は自分の自己実現ではない仕事に一時的な居場所を見出し(うちは夫婦関係も良くないので)娘のために稼ぐ生活である。
帰ってきて疲れ果てて何もできない、そしてそんな自分に苛立ち不機嫌な姿。
とてもじゃないけど自分の人生が楽しそう、とは言えない。
つまりだ。
冒頭の言葉は言葉でなくても伝わるのである。
中高生のころ、私は母が自分のために消耗していくように見えて辛いと同時に重いと思ったことがある。
自分の人生を生きたらいいのに。私にかけたって何かが実る保証なんてないのに。
母が私のために頑張っていることを知っているからこそ、私は頑張らざるを得ない。母はそのストレスを私にぶつけ、私はそのプレッシャーに押しつぶされて、なおさら頑張れなくなってしまっていた。
自分の人生や生活を犠牲にしてまで私にかけて欲しいなんて頼んでいないのだ。
私のために頑張って頑張って頑張って、
その皺寄せで自分のやりたいことができないストレスを、私にぶちまけるくらいなら。
私のためになんて頑張らなくていい。
自分の人生を彩り豊かに楽しんでる姿をみせてくれる方がずっといい…
コメント